こんにちは!やーまんです。
前回から社会学者ブルデューの『ディスタンクシオン』についてお話させていただいています!
「趣味とは何か?」
ということで
私たちが、いたって、個人的なコトだと思っている趣味が
いかに社会構造と深く結びついているか
ということについて語らせていただきました。
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今回は、ブルデューのこの本のみならず、
社会学全般において重要な概念であると言える
「ハビトゥス」や「界」について語らせてください!
いかに私たちが「不自由であるか」を目の当たりにしましょう、、、。(不穏)
ハビトゥス
なんだそれ
って感じだと思いますが、、、
ハビトゥスというのは「傾向」や「性向」という風に訳すことができます。
ブルデューは「身体化された必然」
とカッコ良すぎる言い方もしているのですが、、
つまりは
「行動やあるモノ・コトに対する評価の傾向」
という感じでしょうか。
良い例えか分かりませんが、、
邦楽よりも洋楽派とか
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ピカソの絵を見て「アメイジング!」と思うか「はにゃ?」って思うか、とか
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そんな感じです。
「それって、性格じゃないの?」
と思うかもしれませんが、ブルデューは違うと言っています。
ではハビトゥスはどこで身につくか?
そう、社会関係の中なんです。
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さらにいうと、主には前回であげたような「学校」と「家庭」ということになります。
例えば、いわゆるTHE「セレブ」な人たちっていると思うのですが、
同じ「セレブ」な趣味、嗜好があったとしても元々セレブ家庭で育ってきた人と、
自分で成り上がってきた人では違うハビトゥスを持っている可能性が高いのです。
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例えばA社長とB社長がいて現在の資産は同じだとしましょう。
A社長は先祖代々の会社経営で生まれた時からスーパーセレブ。
B社長はごく一般的な家庭で生まれ、必死に勉強し努力で社長の座に。
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A社長は小さい頃からなんの違和感も無く高級志向な生活だったので自然にセレブなハビトゥスが身につきます。
こういう人たちをブルデューは上流階級(ブルジョワ)と呼びます。
彼らは比較的ゆとりがあるような音楽が好きな傾向があったり、泥臭いやり方をよく思わかったりする傾向があるみたいです。
一方、B社長のような努力型の人々は中間層(プチブル)と呼ばれ、受容するのに自分たちのしてきたような努力などが必要である禁欲的な音楽などを好む傾向があるそうです。
はあ、、、
なんか納得いきませんか?私はなんかすごく納得させられました。
言われれば、「まあ確かにそうかも。」ってなるんですけど、なかなか言語化ってできないじゃないですか(私だけ?)
なので、哲学者とか社会学者の人って「言われりゃそりゃそうだ。」ってことを
見事に言語化するから凄いと思うんですよね〜。
というか私なんか普段生きていたら特に疑問視せずに普通に見過ごす事柄に目をつけて探究することがまず凄い。
これが凡人との差か、、、ゔぅぁ、、
ということは置いておいてハビトゥスに戻ります。
「人はその人の持つハビトゥスによって趣味嗜好を分類している」と言うこともできると思いますが、
それをやるってことは同時に、
「ハビトゥスによって人々が分類されていく」ってことですよね。
つまり、同じようなハビトゥスを持った人たちは集まってクラスターを作る
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と言う感じです。
だから自分の周囲にはある程度似たような考えを持つ人が多いのか、、、ってことですね。
おもしろい。
「界」 趣味は価値観の押し付け合いという闘争!?
ハビトゥスともう一つこのブルデューの考えを読み解く上で大切な概念があります。
それが「界」。(「場」と言うこともある)
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カッコええ、、、(?)
「界」は「闘争の場だ」という風にブルデューは言っておりまして、、
へ?なんのこと?って感じだと思うんですけど
ブルデューは
趣味という闘争=人々の行為には闘争を伴う
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というかなりのパワーワードをぶち込んでいるんです!笑
界というバトルフィールドは多種多様で、例えば
政治、芸術、音楽、文学などなどです。
これらの界というフィールドで人々は自分のハビトゥスや資本を武器にして
「僕の趣味が一番だ〜!」てな感じで闘っているとブルデューは言うのです。
例えば、、例えばですよ!笑
文学でも「クラシックな文学が好き」と宣言する人は、
多かれ少なかれ、エンタメ小説とか漫画とかに対しての差異化や卓越化が動機としてある。
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ってことです。(例えばですからね!笑)
どんな「闘争」も報酬がなければやる意味がありません。
ここでの闘争の報酬はもちろん金銭的報酬ではありません。
クラシック文学がその他を下したとしても1円も貰えないですよね。
じゃあここでの報酬とは??
「象徴」という利益です。
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例えば、一般的に「読書」って「ゲーム」より世の中の多くの人に認められている感じしないですか?
「ゲームばっかり」してたら後ろめたい気持ちになるけど「読書ばっかり」してても後ろめたい気持ちになりづらくないですか?
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そういうことです。(ドヤ)
この「象徴闘争」に勝利し象徴を手にすることで、それが好きなことに対して少なからず「良い」印象を受けることができますよね?
それがこの闘争での「報酬」ということなのです。
なんか嫌〜な言い方だけど、否定しきれないですよね。
だから結構批判されたんだろうな〜
ということで思ったよりも長くなったので今回はここまで。
次回ラストで私が好きな(?)「文化資本」という考え方について語らせていただこうと思います!!
最後までありがとうございました!